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張倹 (後漢) : ミニ英和和英辞書
張倹 (後漢)[ちょう けん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けん]
 (n) economy
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [かん]
 (suf) man (negative nuance)

張倹 (後漢) : ウィキペディア日本語版
張倹 (後漢)[ちょう けん]
張 倹(ちょう けん、生没年不詳)は後漢の人物。山陽高平の人。字は元節。『後漢書』党錮列伝に記録がある。
趙王張耳の末裔であるという。名士として知られ、「八及」の一人に挙げられた。劉表とも親交があった。
父の張成は江夏太守であった。茂才に挙げられたが、刺史の人物を評価できなかったため出仕しなかった。。
165年、太守翟超(「八及」の一人)に東部督郵に任命された。当時権勢を振るっていた宦官侯覧の家が防東県にあり、一族が不正を働いていたが、張倹はその不正を弾劾し、侯覧の母を殺害しようとしたが、侯覧は張倹の奏上を差し止めた。
169年に邸宅で用いていた一人の下僕を解雇すると、侯覧はこの下僕を利用し、張倹が同郷の24人(「八俊」「八顧」「八及」)と党を組み、朝廷を誹謗し叛乱を企てていると誣告した。霊帝は追討を命じ張倹はやむなく逃亡を図ることとなった。
当時の巷間では張倹の人物を高く評価されており、逃亡先では進んで投宿を請う者が絶えず、張倹が逮捕された後、それにより処罰されたのは数十家に及ぶとされている(故事成語の望門投止の由来)。この中には孔子直系の子孫である孔褒孔融の兄)も含まれている(「孔融伝」)。
張倹はその後も逃亡を続け、184年党錮の禁が終結して、初めて故郷に戻ることができた。名声が高い人物であったため、大将軍や三公からの招聘が盛んであったが、どれにも応じなかった。財産を周囲に分け与えたため、餓えをしのぐことができた人々が多かった。
建安年間の初めに出仕し衛尉となったが、曹氏(曹操)の専横を目にすることになり、政治から引退し、それから一年ほど後に亡くなった。84歳であったという。
== 参考資料 ==

*後漢書/卷67 (中国語版ウィキソース)


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「張倹 (後漢)」の詳細全文を読む




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